珠玉の法語 心の拠りどころとなる言葉

このページは、浄土真宗の教えの中から、心の拠りどころとなる法語を集めました。なお、出典の聖典とは、浄土真宗聖典注釈版(本願寺出版社刊)のことです。

1. 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと思ひたつころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり(歎異抄第1条、聖典831頁)

   現代語訳:人間の思いをはるかに超えた阿弥陀仏の誓願に救われて、生と死を超えた、さとりの領 域に生まれさせていただけると信じて、如来の仰せにしたがって念仏を申そうと思い立つ心が起こ るとき、即座に阿弥陀仏は大悲の光明の中におさめとり、護り続けるという利益を与えてくださるのです。

 

2.  親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信るほかに別の子細なきなり。(歎異抄第2条、聖典832頁)

  現代語訳:親鸞は、ただ念仏して、阿弥陀如来にたすけていただこうと、よき人、法然聖人の仰せを受けて信じているだけで、ほかに特別なわけなどありません。

 

3. 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるに世のひとつねにいはく、悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にむけり。(歎異抄第3条、聖典833頁)

 現代語訳:善人ですら往生をとげるのである。まして悪人が往生をとげられないことがあろうか。しかるに世間の人はつねに、悪人すら往生するのだから、まして善人が往生しないことがあろうか、といっている。この考え方は、一応もっともなようであるが、阿弥陀仏の本願他力の救いの心には背いています。

 

4. 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。(歎異抄第7条、聖典836頁)

 現代語訳:念仏者は、何ものにもさまたげられないただ一筋の道を歩むものです。なぜなら本願を信じて念仏する人には、あらゆる神々が敬ってひれ伏し、悪魔も、よこしまな教えを信じるものも、その歩みをさまたげることはなく、また、どのような罪悪もその報いをもたらすことはできず、どのような善も本願の念仏には及ばないからです。

 

5. 源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひた信心なり。されば、ただ一つなり。(歎異抄後序、聖典852頁)

 現代語訳:この源空の信心も如来よりいただいた信心です。善心房の信心も如来よりいただかれた信心です。だからまったく同じ信心なのです。

 

6. 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどのをもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。(歎異抄後序、聖典853頁)

 現代語訳:阿弥陀仏が、五劫ものあいだ思惟して立てられた本願を、よくよく味わってみると、それはひとえにこの親鸞一人のためであった。思えばそれほどの重い罪業をもっているこの身を、助けようと思い立ってくださった本願の、なんとありがたいことか。

 

7. 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあるこなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。(歎異抄後序、聖典853頁)

 現代語訳:わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のように危険に満ち、変化してやまない無常の世界であって、すべてのことがむなしい虚構であり、まことのことは何一つありません。そんな中にあって、ただ本願の念仏だけが真実なのです。

 

8. 「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念文意、聖典678頁)

 現代語訳:「其の名号を聞く」というのは、本願の名号を聞くと仰せられているのです。「聞く」というのは、本願のいわれを聞いて、疑う心がないことを「聞」というのです。また「聞く」ということは、信心をお示しになる言葉です。

 

9. 真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎 のむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。(親鸞聖人御消息、聖典735頁)

 現代語訳:阿弥陀仏の本願他力をたのむ真実の信心を得た人は、摂取不捨の利益にあずかるから、必ず仏になることに定まっている正定聚の位につきます。だから、臨終の来迎をたのみとして待ち望むということはないのです。信心が定まるときに往生もまた定まるのです。

 

10. それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。(教文類、聖典135頁)

  現代語訳:さて真実の教を顕わすならば、それは『大無量寿経』です。この経の内容を要約すれば、阿弥陀如来があらゆる仏陀に超え勝れた誓願を起し、万人を平等に救うために広く真理の蔵を開いて、わけても愚かな凡夫を哀れんで、功徳の宝である名号を往生の行として選び取って施されていることを明かされています。釈尊はこの世に出現して、多くの経典を説かれるが、特にこの経を説いてすべての者に真実の利益を恵み与えることを本意とされているのです。それゆえ阿弥陀如来の本願を説くことがこの経の教えの中心であり、仏の名号をこの経の本体とするのです。