他力のすくいの中では、自力心こそ迷いの因

 浄土真宗は平生業成(へいぜいごうじょう)の教えです。仏教一般の教えでは無明煩悩が迷いの因ですが、他力のすくいである浄土真宗では、無明煩悩を問題にしない無碍光如来(阿弥陀如来)の働きに出遇っている私たちにとって、無明煩悩は迷いの因ではありません。では浄土真宗では何が迷いの因でしょうか。それは自力心です。阿弥陀如来のすくいの働きが届いているにもかかわらず、素直にそれを受け取ることができずに、自分の行為によってすくわれようとする自力心こそ迷いの因なのです。

 私たちは自分一人の力で生きているのではありません。毎日毎日多くのいのちをいただき、多くの人に支えられて生かされている存在なのです。「食前の言葉」にあるように、野菜のいのち、魚のいのち、牛や豚や鳥など多くのいのちをいただき、食材を運び調理するなど多くの人たちのおかげで、毎日美味しく食事ができるのです。そんな多くの「おかげ様」に対して私たちはどれほど感謝しても感謝し尽くすことはできないでしょう。

 では浄土真宗の念仏者の生き方はどうすればよいのでしょう。それは「おかげ様」に対してご恩報謝の生活をする以外にはないのではないでしょうか。私のいのちを、私のいのちにしてくださっている存在、それが「おかげ様」です。私たちはお互いに支え合い、拝み合って生きていく存在なのです。決して自分さえ良ければいいとか、今さえ良ければいいという自己中心の考えを止め、「おかげ様」に対して、ご恩に報いる生き方こそ念仏者の生き方だと言えます。

 ご恩報謝の方法は人それぞれです。自分の得意な方法でご恩報謝すれば良いのです。農家の方は、みんなに美味しいお米を食べていただこうと米作りや野菜作りに精を出しています。漁師の方は、美味しい魚を食べていただこうと漁に励んでいるのです。その生き方がご恩報謝になっているのです。私はどんな方法でご恩報謝させていただこうかな。それが職業選択の目的です。お金のためではありません。ご恩報謝のためです。